キレる教師

先日、本読みをしに行っている小学校で教師による体罰?事件がありました。

給食中に床に落ちていたいなり寿司を見つけた先生(56歳)が子供たち(二年生)に何故給食が落ちているかと問いただしたところ、一人が「給食中はしゃべったらいけないのに、先生いけないんだ。」と突っ込みを入れた。
突然教師がいなり寿司の所へ連れて行き、「見ろ。」と言って床に3回頭を打ち付け2針縫う怪我をさせたとのこと。

−ーーーこの程度の子供の口答え?にキレるとは、よほど普段からストレスがたまっているんだろうな、と想像がつきます。
そして上手く自分でガス抜き出来ていなかったとも。

だいたい給食中は黙って食べるように指導しているってところからして、この先生の頭の固さが出ている気がします。

この小学校は今、各学年1クラスで生徒数は25人前後。
ちょっと前の1クラス40人体制を考えればぐっと子供たち一人一人に接する機会も多いかと思います。そして田舎の小さな小学校ですから、町中の子に比べたらそれこそスレてないというか、純朴な雰囲気があります。
それでもこの先生には、ストレスが溜まるようなクラスだったのでしょうか?

ワタシも今年一回だけこのクラスへ本読みに行っていますが、特に荒れた印象は無かったような。
たいてい低学年はよく聞いてくれるし、リアクションがあって楽しいんですよね。
まだ赤ちゃんぽさも残ってるし。
そんな幼さが残る学年で、楽しい給食時間に「おしゃべりは一切ダメ!」なんて言われたら悲しくなってしまいます。
食事中に無言・・・・なんて寂しい風景だ。刑務所じゃあるまいし。
給食時間は子供にも大人にも息抜きタイムであるし、そんな時に交わすたわいもない会話が友達との絆を深めたりするものなのに、この先生の目的がイマイチわかりません。

友達とおしゃべりしながら食べるのは(もちろん口に食べ物が入ったまま話すのはNGですが)とっても楽しいじゃないですか。
沈黙の中で食べる給食。食が進まなそう。(あっ、時間内で食べさせるという目的かもしれませんね。)

先生は子供たちに「生きる楽しさ」や「友達の良さ」なんかを教えてあげる機会を持たせることが、後々勉強以上に大切な心の芽になるんじゃないのか、と思うんです。
躾も大事でしょうが、いつでも緊張を強いられる教室は面白くないし、結束が生まれる訳もない。
生真面目故に子供が乱れることを恐れて、躾け、しばりをキツくするのは逆効果というのはこの先生くらいの経験を積んでいればわかっていそうなものなのに。(もしかすると今までは中学校の担任だったのかもしれません。それなら合点がいきます。)
あるいは一日にこなさなければいけないあれこれをスムーズに消化することに躍起になっていたのかもしれません。

結局、この事件の問題点は先生の気質(決まりは厳守、少しの乱れでも気になる)、融通の無さにある気がします。
先生自身、楽しい生活を送っておられるのでしょうか?心配になります。

「先生、おしゃべりしちゃいけないんだ〜〜。」と子供に突っ込まれたら
「はは、こりゃ一本取られたね。 でも食べ物を床に落として知らんぷりはいけないな。」くらいの心の余裕が先生にあれば・・・・

人間相手の仕事だもの、もっとお互いの気持ちを考えて「合気」ですよ!
頭ごなしに叱るんじゃなくて、どうしていけないのか、とか子供が納得するようなエピソードや自分の体験を絡めて話せば子供たちだってよく聞いてくれますよ。

ーーー余談ですが
「子どもに愛されたナチュラリスト シートン」 小泉吉晴著 福音館書店  より引用。

「教育」(英語で「エデュケーション」)という言葉は
ラテン語の「引き出す」という言葉からきていて「教える」というより、もともとその人がもっている能力を「引き出す」という意味です。
ところが日本語に訳される時、「教育」という言葉にしたために「教え育てる」という語感から「教育」の意味に誤解が生まれました。
 本来は、人がその気になった時に、助けるという姿勢が「教育」の基本になるといえるでしょう。(中略)シートンは自然の中で遊び、感じて、考えることで、子どもたちの「驚く心」や「分かち合う心」が引き出され、経験が積まれ、そしてその人らしく自立していくものだと考えました。



ーーーーう〜〜ん、「教育」の意味からして日本では間違っているのか。(ため息)
by mieru1 | 2008-10-26 00:28 | 本読み/こども | Comments(0)
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